「瞑想」と「まあそう」

久しぶりに「朝の瞑想」を書いてみようとと思ったら、変換で「まあそう」と出たので書いてみました。

あんまり、肩に力を入れずいこうということかな。

「覚醒」、「悟り」とか言われることは、とても難しいことで、厳しい修行の結果得るものの様に思っていたけど何か違うかもとか思う今日この頃です。

この世が、仮想空間であることに気がつくことから「悟り」、」覚醒」が始まるのではと思うと、映画のマトリックスを見れば、それもありかと 多くの人がそう意識する様になったのでは無いでしょうか。

ブッダも苦しい修行をしたけれど結局意味ないことを知った様ですし。

それでは、イエスキリストは修行をしたのでしょうか?

あまり修行したことはなかった様な気がします。

というより、イエスキリストについてはあまり知らないことに気が付きました。

苦しみ、悲しみ、怒り、喜びなどの感情は、この地球でしか経験出来ないのでしょうが、それを経験するためにこの世界に生まれてきたというようですが、それだけのことのようです。

その結果、この世界が真実になってしまったわけですから。

いつまでもそれを繰り返し続けるの人達に対しイエスもブッダもそのことを伝えていた様に思います。
2000年経っても人は、変わらないということですか。

もう少ししたら、変わるのかな?

そんな雰囲気はありますが、楽しみましょう。

SORA's Ownd

気づいた事を時々書きます。

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